終わりを信じないこと/ツヅキモノとのゲリラ戦争 トイストーリー4に寄せて

敬愛する結騎了さんのブログが荒れている。
 
 

www.jigowatt121.com


結騎さんが最も恐れていたことが現実になった。
 
まだ「トイ・ストーリー4」は観れていないのだが、先日の記事から読んでいて、我慢できずネタバレを目にしてしまった。トイ・ストーリーシリーズの全てを愛するおもちゃ達とリビングで見届け、そして毎回涙した者として、既に近しい思いと言うか、やり切れない思いを感じている。
 
と同時に、近年の「シリーズもの」について恐れていることがあるので、簡単に記載させてもらう。やっぱり僕らの「戦い」が始まると言う感覚である。
 
以下、主に「トイストーリー」、「アベンジャーズ」、「スターウォーズ」「平成仮面ライダー」シリーズの各最新作のネタバレを多く含みます。未視聴の方はご容赦を。
 

 

「ドル箱」としてのツヅキモノ

 
ディズニーが強すぎる。「ディズニー」だけじゃなくて、マーベル、ルーカスフィルム、スポーツまで取り込んで、王国を建造し現実にまで侵略してくる超大国なのである。

wired.jp


正直耳タコな話ではあるけれど、コンテンツそのものの中に多くのコミュニティとファンを持ち、クロスオーバーとしてヨコにも繋がり続ける。これは00年代まではファンアートとして自由闊達に楽しまれてきたものであり、お互いが時に楽しみ合い、厳しく指摘しあいながらある意味コソコソと、インターネットのそこかしこで、暗がりの中で楽しまれてきたものだったと記憶している。
 
それが「MCU」「アベンジャーズ」の登場のあたりから事態が急変する。オフィシャルに大胆に、とんでもない規模で膨張し続ける。昨日布団の中でニヤニヤと考えてきた僕らの「続き」が、スクリーンの中に完全にプロの手で調理されたモノとして眼前に届き始めたのだ。正確に言うとMCUは「ありものの映像化」だから、そんなに大きく軸はブレないし文句も出ない。「スターウォーズエピソード7」という都市伝説にも似たものの具現化の中で、それははっきりとカタチとして現れたのである。しかもドラゴンボールの続きを鳥山明が作るようなものではなくって、全くの他人が作れてしまうのだからタチが悪い。絶妙にファンに目配せされ、完璧なフォローでもっていくらか文句のつけようのないものとして調整されているからだ。
青春を賭けて追いかけてきたものであればあるほど、「続き続ける」効果は抜群である。何が抜群かといえば「カネになる」。それは「プレミアムバンダイ」という我々日本オタク御用達サービスの成功が物語っている。

https://www.bandainamco.co.jp/cgi-bin/releases/index.cgi/file/view/8269?entry_id=5744  


 
思い出が強ければ、それは強烈なロイヤリティになる。ロイヤリティとはカネである。
 
それは「スターウォーズ」「MCU」といった「男の子のスキなもの」だけでなく、全ての「昔多くの人の琴線に触れたモノ」の全てに適用される。プリンセス映画の実写化だとか、今回のトイストーリーのような、もっと幼かった僕らの人格のド真ん中に位置するコンテンツも容赦無く対象になる。一つひとつの「復活」「続編」「実写化」に、僕らは向き合うことになったのだ。だから、恐る恐るその扉たちを開ける作業は、常に喜び9割とともに「果たして期待したもの=あの頃夢見たものに合っているものだろうか」と言う緊張感を1割含んでいる。

 

 
納得と感動とそれ以外、割合は調整出来ても整理出来ない感情

大前提は、喜びと感謝なんだ。
 
心のどこかで、諦めながら待っていた。そんなものが蘇り、立ち上がり、続いてくれる。暗がりの中で願っていたものが本当にやってくるんだ。20歳になった時にいきなり赤い服でヒゲを生やしたサンタがやってくるようなもんだ。世界は少しずつ本当に昔願ったものになってくれている。ただしそのサンタさんは、往往にしてソリじゃなくヘリに乗ってやってくる。やたら求めてもないのに説得力があるのである。
  「外伝」でもなく、「特別編」でもなく、「続編」と言うカタチで現れたものには、僕らは真正面から対峙しなければいけない。たとえヘリでやってくるサンタクロースでも。
 
どうしても「続編」はそれまでからの改善である。どこかそれは「ポジティブで」その時の「現代的なもの」であり、また「新しいターゲット」にどこかしら向いたものでないといけないのはしょうがない。
それによって僕らは新しい解釈や、それまでのシリーズのモヤモヤした部分にブレイクスルーを感じられることもある。「スカイウォーカー・サーガ」の終着点とされたスターウォーズ続3部作は「誰でもなれる、チャンスがあるスターウォーズ」になったと思うし、「ジオウ」では力を失い、やつれ痩せながらも芯の部分が変わっていない城戸真司を観ることができる。それは決して二次創作では受け取ることのできない強いメッセージであると同時に、次なる希望を与えてくれる。
 
しかし多かれ少なかれ「感情の取りこぼし」を起こす。つまりそれまで形成されてきた「あるべき」はマスに対して往々にして通用せず、捨てられざるを得ないということだ。「〇〇は人生」と言うワードは今やあたり前だが、本当に人生のように、青春そのものとして認識されてきた作品の「あるべき」が、時代に沿って削ぎ落とされ、新しい「あるべき」を取り込んで肥大化する。何かの物語を「好きだ」「素晴らしい」と思ったその時、まだ作品は「青春」でしかない。続編のデスマーチが「人生」の様相を呈している。
 
以前は単純なお姫様キャラだったボーが、強く逞しい女性になったということは一つトイ・ストーリーでは象徴的だと思う。
 
以前ジャンプ作品でよく騒がれていた「結局血統ゲーやん」「最後はトーナメントやん」もある意味、長く続く作品の宿命としての一つの「感情の取りこぼし」だろう。
 
感情の取りこぼしは、無限に起き続ける。
実は、僕の中でもどうしても、それこそ「ツヅキモノ」としてのアベンジャーズの宿命であったトニー・スタークの死を、エンドゲームから2ヶ月経つ今でもあまり受け止められていない。もっというとソーが太ったままMCUが進んでいくことも、キャプテン・アメリカがムジョルニアを握れたことにも納得がいっていない。そこには僕なりのシリーズへの憧憬があって、「強く万全なアベンジャーズが」「それぞれの強さを生かして」戦うことにひとつの青春を感じていた からなのだと思う。思えばキャップがムジョルニアを掴んだ瞬間から、アベンジャーズが「青春」から「人生」に変わった。
100%完璧な結末は、残念ながら面白いモノほどもう絶対に、得られない。

なぜならもうそれは延命を繰り返し、「青春」ではなく「人生」へと否応無しに変わっていくからだ。 

 
最終手段としての「信じない」という対処法

告白でもなんでもないのだけれど、
僕はトニー・スタークの死を信じていない。
ウッディは「バズと」「おもちゃ箱の中に」棲んでいると、まだ思っている。
なんならうずまきナルトが両親に愛されていたこともまだ信じていない。
 認識している僕の世界の中で、物事は全ていいようにストップしなければ、もう生きていけないのだと感じている。それが青春を守り、相手の眼を見て「好き」というための最終防衛線だ。「納得しているけれど、どこか信じていない」そうして生きるしかない。さもなくば不人気のためにそもそも「続編がなかった」ことにされて公式で別の続編が作られたターミネーターシリーズと一緒だ。
 
 
ヱヴァンゲリヲン新劇場版における(NOT)有り無しパラレルワールドというものをご存知だろうか。

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 http:// https://ameblo.jp/tatsuya0404/entry-11407090720.htmly  より転載させていただきました。
 
考察の量と深さが尋常出ないエヴァンゲリオンシリーズならではの考え方だと思うのだが、「連続するストーリーと思われていたモノが実はパラレルワールドの連続時間軸のモノである」 とする考え方である。
2012年の公開当時に観客を完全に置き去りにした衝撃の「Q」公開時に、ファンの方々の愛憎入り混じる議論の末確立されたものである。
 これを初めて目にした時(とはいえファンの熱量が高すぎて公開三日後にはネットで確立されていたのだけれど)、「あ、幻だと思っていいんだ」と、かなり肩の荷が降りた気がしたのである。ああ、悪い夢だと考えるのもありだって。いや夢ではないんだけれど。
トイ・ストーリーパラレルワールドもへったくれも、あったものではない。バズがよしんば飛べたとしても、タイムリープは絶対できない。しかし、ありえることなのかもしれない。でも全ての作品の作り手と同じ世界、時系列に僕らは生きていて、まだまだなんだって作り出すことも信じることもできるのだから。残念ながら事実は変えられないし、得た体験は帳消しにはできないが、世界がどうあるかは全て自分の認識があってのことである。
 
僕たちの「青春」と思っていたコンテンツが、「人生」の長さまで延命し、時代に求められるため変化していく。続くことそれ自体がドル箱になった今、物語を持つ全てのコンテンツにこれは可能性がある。いつ何時、「青春」が「人生」になり、信じるか信じないかを選ばせる日がやってくるかなんて、もうわからないし頻度をどんどん上げて襲いかかってくるのである。
もうこれはリビングデッドになった作品たちと、物語を愛する者たちとのゲリラ戦争なんだ。集団と集団の全面戦争ではなく、いつ何時やってくるかわからないゲリラ戦としての続編と、対処両方的に「信じる」「信じない」で持って事故を防衛する我々との。
そして、「信じない」選択をした物語は、大なり小なりその輝きを失っていく。青春をまばゆいままにして。
 


ネクロマンスと戦い続ける世界へ

昔までも大なり小なり、作品への愛のあまり結末に納得できないなんてありふれた問題、そこかしこにあっただろう。いつだってそういった意見を持つことが、自分を大人にしてくれたなんてことも感じている。
しかし今はそれがいつ何時起こるかわからない。
①いつ続編が出てくるかわからず
②目まぐるしく尊重される価値観が変わる
からだ。残念ながらレガシー的なモノであっても、新しいモノを取り込まないといけないかもしれない。そっちの方が面白いかもしれないし。
 
「ツヅキモノ」というゲリラゾンビ。人生100年時代。僕らの青春は残念ながら、青春のままではいられなくなってきている。
 

「置かれた場所で咲け」という話が嫌い/期待と呪いの話

不合格、異動、命令、却下
どちらかというとこういうネガティブな出来事の前後に来ることが多いと思う。「置かれた場所で咲きなさい」というこの言葉。大嫌いだ。

もとはと言えば、「来た道を正解にしなさい」「期待に応えなさい」「頑張ればきっと拾って(摘んで)もらえるよ」という意味のモチベートの言葉であろうと思う。
言いたいことはわかる。起きたことはしょうがない。むしろ落ち込むこともない。頑張ればいい。やることはシンプルだ。そして、必ず見出される。
そうすれば、きっとゆくゆく出来ることも増えるし、認められるし、そこから最大の幸福が得られる。目的は自ずと絞られ、行程は明確になる。新しい環境が不安な人の目先のつゆ払いをするのには、とても向いた言葉だと思う。

その上で。やっぱり嫌い。
①「そこ」で「咲く」ことだけが「成果」に思えてしまうから。
例えば成果AがA=X×Y×Zで求められるとして、
「そこ」がさも決まった場所であると「置かれた場所で咲きなさい」と言われて誤解をすれば、Xが固定されて後はY×Zのみを頑張って上げてAを出せと言われているようなものだ。Aを出すことにやり方があり、すでに何かが決まってしまったと言うようなものだ。

②「誰か」が「見ている」ような錯覚に陥るから。
頑張れば報われるのは今は昔の話で。尚更新しい環境なんて注目されるかどうかなんてわからない。
「置かれた場所で咲きなさい」はともすれば何かしらを決める「神」がいて、「見られている」かのようにとらえられる。だとすれば、認めて貰う為の努力しかしなくなるのではないか。ゴールが「ある」と錯覚してしまうのではないか。現実、みんなが見ているとも言えるし、誰も見ているとは言えない。しばらく経ってから半分咲きぐらいで、誰も見ていないと気づく方が残酷だ。

 


結局、「期待」は「呪い」であり、「鼓舞」は「限定」だと思う。そして、「声援」は無意識に「応援してあげる側」「して貰う側」を作るとも思う。だから人を応援したり、期待したりというのは軽い気持ちでやっちゃいけないと思う。「現状をポジティブに受け止める」ことは、人生を縛りプレイに近づけるのではないだろうか。
もちろん、腹は括らなきゃいけない時もある。その時は菌茸のように伸びて広がって、知らないところで咲いてやる。

白日からは逃れられない/1日2回、ほぼ毎日King gnu「白日」を聴いてしまう理由について

今週のお題「わたしの好きな歌」

 

King gnuの「白日」が、どうしても耳から離れない。口から離れない。1日あたり複数回、どうしても聴いてしまう。明らかに聴く側にも歌い側にも番人ウケするタイプじゃないのにカラオケ入った瞬間に入れてしまうし、Spotifyで聴きすぎてAIがとうとう気を遣ったのか、何を聴いても絶対その次に白日が流れてしまう。本当にすまん。

 


King Gnu - 白日

何故こんなにも人は(僕は)「白日」を聴いてしまうのか。結局理由は一つだけだと思っている。

 

誰しもがこんな後悔をしたことがあるからだ。しかもそれに対して「わかってもらえている」感があるからだ。だからそれに対して自覚的になれた瞬間に、強く人は感動できているのだと思っている。

真っ新に生まれ変わって人生一から始めようが

へばりついて離れない地続きの今を歩いているんだ 

「死にたい」と思う。「巻き戻したい」と思う。それが、自分自身だけのことじゃなくて、他の人を不利益にする行いに対してだったら。過去の一点の過ちが、ただ一つなくなれば、目の前の大切な人と自分と、幸せにできたという確信があったとしたら。

だけどタラレバは誰にも通用しない。身内とはケンカだらけ。家賃もインフラもろくろく払えていない。仕事は8割が昨日から持ち越し。なのに二日酔いがやばくて今日も頭がぼーっとして集中できない。きっと誰だってそうだ。取り返しのつかないことを大なり小なり山のようにやって、結局成り行きで今ここにいる。身に覚えのない打席に幾度となく立たされる。それが自分の今の全てだ。過不足なく100パーセントが常に自分の全てだ。でもやっぱり後ろ髪を引かれ続ける。それも一本二本じゃなくて、幾千本の髪の毛だ。

 

自分は特別でありたい。特別になれる。

でも、一つの間違いで、どうしようもなくなってしまった。こんな不幸は他の誰にもない。

きっとみんな、大なり小なりそういう風に思っている。わかる。わかるさ。それをひっくるめて、生きていかなきゃいけないんだ。そんなことを3分強言い聞かせてくれた上で、最後のサビの前にこういう説教のフレーズが待っている。

朝目覚めたらどっかの誰かになってやしないかなあ

なれないしないよな 聞き流してくれ

 最初聴いたとき、びっくりした。やっぱり隣の誰かも、天才常田も、同じことを考えては、諦め、覚悟をキメてきたのか。いや、自分の苦しみや考えが自分固有のものだと思い込んでいることの方が、本来は死ぬほど愚かしいことだ。

優しかったはずの声で、力強く、やっぱりそんなことはない、させないって言ってくれる。生き返るチャンスなんて本当の本当にないのだ。自分一人じゃなくて、他の人間全員にとって、ないのだ。それでもこのクソつまんねえ世界を、必死こいて生きていかないといけない。泥水啜って靴底舐めてでも。恐ろしいことに、みんなそうなのだ。

 

日常のつまんない悩みも、「死にたい」と口をついて出ることについても、「そんなこと誰も思ってないよ頑張ろうよ!」じゃなくて「わかるよなつれえよなでもみんなそうだぞ」という一番逃げ場のないアプローチで決断を迫ってくる。だから、やる気が湧く。やっと前を向ける。聴いたことのないぐらいのブッ千切れた美しくて強いメロディだから、なおのこと「ああ、この曲を自分で選んで、聴いて、今戦ってるんだ」という感じがする。

 

King gnuという、この曲が出るまでほとんどの人が聴いたことのないバンドの曲だったからこそ、「自分が選んで」「それが自分の課題にぶち当たって」「そして鼓舞されている」という感覚に襲われる。しかもその「自分の課題」は、常に沸き起こるから実際は無期限有効だ。

なんかそういう意味で、僕にとっては「白日」というより「白夜」みたいな曲だ。一生終わりがやってこない。逃げられない。戦い続けろ。びっくりするぐらい、そういう問いかけは万人にとって共通なのだろう。いつだって変わらないのだろう。だからこそこの「白日」は、ずっと僕の心にへばりついて離れない。

ストーリーはもちろんだけどアクションシーンがちょっと半端ない。/スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム レビュー

 まさか自分がこんなにスパイダーマンを好きだと思っていなかった。公開日だということを知ってから足早にレイトショーに、コーラもポップコーンも持たずに行ってきた。

ふと公開日のことを思い出してから映画館に着くまで多分30分ぐらい。それだけスパイダーマンというものが自分の結構な芯の部分にあるコンテンツだということがわかる。サム・ライミ版から全部劇場で観てるもんな。

 

そんな自分にとって最も親愛なる友人スパイダーマンのレビューなんだけど、物語はともかくとしてアクションシーンがヤバイぐらい激ヤバだったので、簡単にやっていきたいと思う。ネタバレします。

 

 

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強く「スパイダーマン」的なアクションの序盤

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序盤はヴェネチアプラハというすげークラシックな街並みの中でのバトル、というかほぼ紐縛り合戦になるんだけど、ここは極めてスパイダーマン的なアクションだった。それもサム・ライミ版にすごく近い。

ミステリオの緑スモークモクモク&大量の水、炎の演出が美しく新しく、それでいて妙に「いつも通り」だ。一般的なヒーローの登場感があるのだろう。

違和感の正体を探っていったらあれだ。グリーンゴブリンの登場シーンっぽい。それもパパの方。10年以上前のあの爆弾が「キューン」って音するやつ。(しないかもしれない)。美しいけれど、「既視感」という意味で写実的なのだきっと。

 

そこからのお約束タワー崩壊。紐でキュッとして、グァーっていくやつ。これ全作お約束のやつだ。電車と船と落ちるレイディとその他諸々を窮地から救う仕組み。×今度は鐘ときた。これ完全にヴェノム戦の高揚感を思い出させるシーン。きっと既視感と謎の高揚感は、全てこの混ぜ合わせだからできてるのかもしれない。

かれこれそんなこんなで「伝統芸を私服で魅せる」ヴェニス戦は短く、抑揚が無いはずなのに、異常に高揚感を与えてくれるものだった。それはスパイダーマンを10年いや20年追っているオタクだからわかるセンスである。ボーナスである。わかってやってるのかなマーベル。

 

 

AR野郎ミステリオ戦での「没入」

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そこから舞台はプラハへ。最近のスパイダーマン平成ライダーかってぐらいフォームもといスーツ変えてくる。ステルススーツの「あ、こんな感じでもスパイダーマンスパイダーマンなのね」という発想の転換は妙に現実的な感じがあって、のちに続く。原作では「VFX使い」らしいミステリオの、AR攻撃である。ARなのかVRなのかこの場合どっちなんだ。何しろ音と光が我々の信じるもののほとんどを司るのはいうまでも無い。

 

ここから物語も戦いのルールも、全てが揺らめき、それは全く新しいものになる。心を委ねたミステリオはサイコで矮小なペテン師であり、目に見えるものは全て疑わしい光と音の幻になる。

 

この感覚、鍛え抜かれた平成生まれのオタク達は皆知っている。鏡花水月である。

鏡花水月の能力。完全催眠。当時の読者は皆、それを知った瞬間に10冊ほどは単行本を持ってきて、観てきたものをもう一度遡り出したろう。「は?」と。「どこから?」と。つまり一瞬で、画面の向こうの我々の記憶を頼りなく情けないものにしてしまったのである。それまでも、それからも全く信用できない。

ミステリオ氏のそれはまさしくその能力である。現実と非現実を小気味よく織り交ぜ、そして非現実トラウマで圧し潰す。ここら辺はちょっと月読っぽい。最初怖すぎて泣いた。いやなんかスパイダーマンいっぱい出てくるの怖すぎでしょ。なんか最近見たと思ったらヒロアカだった。先取りだったのかよ

 

トラウマ投影、スパイダーマン増殖、アイアンマンゾンビ化を経て、この辺りからなんか、日頃の映画とは全く違う体験になってきた。CGぶっかけ丼状態なのになぜか没入がすごいのである。アニメ観てる男の子がパンチキック言いながらパンチキック自分でしちゃうあれ。勝手に手が出る。つーか、指が動く。なんだこれ。あれ。

 

 

最近やったゲームだーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

そう。あれ。これ。めっちゃCGぽかったからかな。めっちゃそんな感じ。やばい。そういう意味での没入がやばい。だんだんゆっくりゆっくりで記憶と視覚をバグらせてくるから、めっちゃCGに慣れてゲームっぽくなる。なんなのこれ。そうこうしてる間にオランダ超特急。

 

 

 

アイアンマンを継ぐ者へ/ロンドン戦

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いやーもう、スーツ作ってるシーンとかさーぁ、ホログラムを指で「スィン」ってしてるところとかさーあ、もう完全に師匠じゃん、トニー師匠じゃん。明確に諸々超えて(いやそれにしては短いんだけど)もう完全にネクスト・アイアンマンのそれなわけですよ。よく出来た理系学生の設定からアイアンマンに迫る知能って設定まで飛躍させるのはちょっと無理があるけれど。兎にも角にも彼はもうアイアンマンなわけですよ。立派な。

敵もお誂え。スタークさんのドローン一山。場所もロンドンブリッヂ、飛行機から投下、何もかも申し分なし。アベンジャーズがあったらほぼアイアンマンさんがやるとこなんですね。それをやる。一人で。完膚なきまで。

ここはもう完全に。スパイダーマンのアクションじゃなくなってるんですよ。規模も太さも。爆発もスマートさも。アイアンマンの戦い方。なんていうこういうの。横綱相撲。ちょうどチャフ撃ってた頃のかわいいアイアンマンっぽい。軽快なんだけどとにかく、骨が太い。負ける気がしない。これからのスパイダーマンって、こうなんだねっていうのがすぐわかった。全然怖いものなんてないって感じ。

 

 

 

ムズムズ・紐なし・AR破れたり。

そしてラストバトル。AR一本勝負。ムッチャクチャ速くて美しい。そこに「スパイダーマン2」同様のスパイダーセンスリターンズ。最後の銃掴むまでの流れが完璧すぎる。

この頃になるともう身体っていうか目っていうか指が完全にVRモードでして、兎角没入ですよ。球がきたら首で避けちゃう。つーかめっちゃ方向キー押しちゃう。空で。もうなんかあれだよ。格ゲー。又は音ゲー。それかキングダムハーツとかのフイのコマンド押しイベント。ノーミス気持ちいい系の。

 

そして最後の嘘を破った時、全てが砕ける。明るい空が見える。ナマの音と光が入ってくる。

なんかこうまとめるといつものスパイダーマンのラストと違うね。どちらかというと静かな暗闇に落ちることが多かったのかもしれない。なんにせよ新しすぎるスパイダーマン体験でした。二度と味わうことはないでしょう。

 

 

 

高度に発達した科学は魔法と見分けがつかない

とはよく言う。誰が本当で夢か。なんて裏で動く事象の全てを知っていないとわからないのであり(なんか何故かラプラスの魔っぽい)、理由がわからない限りは見たものが現実だって、あるいは魔法だと思ったって、きっといい。

でも、なにかの嘘を暴かれることで、スクリーンの彼方と此方の両方を、信じられたり、あるいは信じられなくなるような映画は今回が初めてでした。きっと二度とないでしょう。

 

スパイダーマンとかいう超メイン作品でこれをやる凄さ。次が超楽しみ。フェーズ4だっけ。

「インターネット」が分断されて、みんな礼儀がわからなくなっていって仲が悪くなる説

今の30分で僕が見たインターネットコンテンツ
・同年代のnote
・23の女の子のInstagramのストーリー4つ
・38のおっさんのFacebookの日記
・なんか売れてる人達とオタクのTweet100個ほど

全部インターネットなようで、インターネットじゃない。
「ケータイを触っている」ようで、いる世界が全然ちげえ。一つ一つの言葉に検索の互換性がなく、文脈を全く持たず、ストーリーに至ってはそもそも文字がないから検索出来ねえ

メールの時代から何も変わっていやしない、あるいはFacebook全盛だった2012年頃からすると、それより前より圧倒的に「分断された」。インターネットがアプリの中だけのモノにわざわざ押し込められたから、その間を行き来出来なくなったんだ。厳密にはみんなアカウントを持ってるから出来はするけど、想像出来ない。となりの人の「インターネット」のあり方を追体験出来ない。

だからオッサンのFacebookの「何の気のない」日記に取り上げられた青年は「わざわざFacebookで」話題にされた意味を意味もなく探すし、女子の「たかだかストーリーに」映り込んだオバサンは粘着質にストーリーを消せと詰め寄る。
「インターネット」の意味がみんなにとって分断されてきている。多分、量と見た目と検索可能性の部分において。

そう言う意味で「動画」を一点の場所に集め続けてガキからババアまで全員観させるYouTubeって本当すげえな。google検索じゃなくてYouTubeが最大の資産だと思う。

「インターネット」を表すものが2ちゃんねるだった時代の方が、まだみんないろんなものを共有していたし、「インターネット」と聞いて思い浮かべる絵がみんな一緒だったと思う。「2ちゃんねる」と「それ以外」だけで、しかも「インターネット」のほとんどが2ちゃんねるイメージだったから。つまり掲示板イメージ。

きっと若者の頭の中が、もっともっとわからなくなる。しかもそれが文字によらない、アプリの作り依存のものになるから、体験しないとわからない。TikTokとか俺無理だし。

 

わからなくなってく。わかれなくなっていく。
なんとなく、インターネットでみんな仲悪くなっていく気がする。

それが「掴み取ったもの」だとわかれば、きっと強くなれる。/キャプテン・マーベル レビュー

 キャプテン・マーベル、劇場で観てきた。

ぶっちゃけアベンジャーズの中ではほぼ唯一の「インフィニティ・ウォーとエンドゲーム間のつなぎ」だった、という理由だけで劇場鑑賞を決めた訳なんだけど、嬉しいメッセージが入っていたのでブログに書こうと思う。ネタバレは当然のようにします。

 

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マーベル版「呪いを解く」物語

 

これは「呪い」を解く物語――

 

その始まり――「呪い」とはある人に言わせると、自分の遠い先祖の犯した罪から続く穢れと説明する

あるいは――坂上田村麻呂が行った夷征伐から続いている「恨み」と説明する者もいる

また違う解釈だと 人類が誕生し物事のをはっきり区別したときにその間に生まれる「摩擦」と説明する者もいる

だが とにかくいずれの事だが「呪い」は解かなくてはならない

さもなくば「呪い」に負けてしまうか…

 

 「ジョジョの奇妙な冒険」シリーズ「ジョジョリオン」冒頭の文章。

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主人公の東方定助は記憶を失った状態から「惹かれあって」やってくる刺客たちと戦い、その過酷な生い立ちに気づいていく。それは「自分は誰かと誰かの融合体で、本当の自分は自分の半分。そしてその部分は死んでいて、今の自分は誰かから生まれたとか、ルーツのあるものではない」というものだった。それを悟った主人公の定助は、作中唯一と言ってもいいほど強烈に取り乱す。

 

 

 

今作は、主観だけどこれにすごく流れが近い。

クリー星の戦士だったはずのヴァースは、混沌とした状況と混濁した記憶の中で、「スプリーム・インテリジェンス」に与えられた力の根源と、自らにとっての正義だったはずのクリー星人の邪悪に気付き、絶望してしまう。(ここまでがいわゆる「呪い」を明らかにするシーン)だが、旧友のマリアから自分を自分だと再認識する言葉をかけられ、そしてクリー星人との戦いに挑む(「呪いを解く」シーン)。

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「記憶を失った主人公が自分の邪悪さに徐々に痕跡から気付き、絶望する」という筋書きは、昔「メメント」で追体験できるものに近いけれど、「キャプテン・マーベル」の中では自分の存在そのものがガラリと180度、そして360度と、変わる体験ができる。

・銀河を救うヒーロー→侵略者→そして再び本当のヒーローへ

・(スプリーム・インテリジェンスから)与えられた力→(マー・ベルから)受け継いだ力→自分で掴み取った力

 

MCU10周年にして初の女性ヒーロー単独作品とかMCU最強の戦士のオリジンとか若き日のニック・フューリーとの掛け合いがかわいいとかエンドゲームの伏線がどうとか、正直あんま関係ない。

 

自分自身に気づくこと、正しく認識すること、そうすることで自分を信じ、強くなれること

 

それをビジュアル的な力強さで、伝えてくれたことが何よりの嬉しさで、楽しさだったことを誰かに共感してほしい。

 

与えられた力で戦う愚かさ、無力さを説くシュプリーム・インテリジェンス。失敗を笑う聴衆、敵、敵、敵。

宇宙人とか別に関係なく、キャロルの今までの体験の中で、彼女の失敗、無力さ・無謀さを浅はかにも笑う人々の顔が描かれていく。

でも、彼女は悟る。「与えられたんじゃない、勝ち取ったんだ」と。その瞬間身体は熱を放ち、瞳は輝く。

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もしかしたら与えられたものかもしれない、偶然の産物かもしれない。でも、それを掴み取ったのは、他ならない自分だ。 そう考えれば、強烈なパワーとスピードで、戦える。コントロールだって思いのままだ。

 

そうなったらこっちのもんだ。いつだって実は誰だってそうだし、そう思う回数が多い奴の方が圧倒的に強い。原体験の全ては、そうして結びつく。

 

そうして彼女は最強のヒーローになった。宇宙だって思いのままだ。「呪い」だって「ギフト」に変えた。いや「ギフト」というより「ボーナス」の方が近いか。

 

 

 つまんねえ運命論だとか、自信のなさとか、そんなんケほども意味がねえや。全部責任も権利も自分が掴んだもんだ。きっと生まれた時から。

 

そんな風に思えた、素敵なヒーローオリジンでした。

 

 

 

 メッセージと違ってたらごめんなさい。あとエンドロールの赤と青の対比がとっても綺麗だった。

 

 

 

 

CWCの内田篤人と平ジェネの佐藤健がダブって見えた。

nlab.itmedia.co.jp

web.gekisaka.jp

 内田篤人佐藤健って、なんか似てるよなあ、顔というか、ふるまいというか、キャラというか。

二人とも29と30歳で、歳近い。

彼らが20前後の時、僕が高校生の時、本当にこの二人は完全無欠の「イケメン」だった。

 

彼らがヒーローとして姿を表したのが2007、8年で、そこから2010年までの3年間は、もちろん僕が中〜高生だったこともあるけど、本当に何もかもがうまく行くというか、リーマンショックはあったけどそれ以外のことは全てうまく行っていたというか、こんな「クールで完全無欠な人たち」 が「クールで完全無欠なまま」活躍し、未来を切り開く、「過去と未来を知ろしめす」感のある時代だったと記憶している。

佐藤健の電王でのデビューから、次にインパクト大きかったのはブラッディ・マンデイ。なんというか本当にウラタロスみたいな「完璧」さを見せつけてくれた。

そのあと、いつのまにか仮面ライダー出なくなって、なんか俺なんかが観ないような甘い映画や、大人な映画に出たりして、るろ剣以外ろくに姿も見えなくなって、

 

内田篤人は鹿島で3連覇して代表入ってすぐスタメンになって、W杯終わったと思ったら光の速さでドイツ行って、アジアカップ優勝して、CLでクリロナとバトって。

ブラジルでめっちゃ負けて、膝悪くなっちゃって、また姿が見えなくなって、

 

青春時代のアイドルで、公私ともにキャラあんま変わらない人たちだと思ってたら、なんか本当にクールな感じで、たまにサッカーも、ライダーも、マンネリしたり、純粋におもんないなって思う時があって、そんな時、あー二人がいてくれたらなーなんて、思ったりすることもあって、でも気づくと動いている姿全然観なくなって、結構寂しくって、

 

そんな二人が2018っていう、丁度10年ぐらいの間隔を開けて、大好きな場所に帰ってきた。顔も身体も老けた感じだけど、ライブで観せてくれる。僕らにメッセージを放ってくれる。

ネットが発達して、物語も語られ尽くして、新しいものと古いものの 入れ替わりもどんどん激しくなって、なんか自虐的というか、カオスなコンテンツが増えたなと感じるここ最近だけど、

平成最後になって、僕の中のブレないクールが2人とも、帰ってきた。

しかもスッゲー先輩になって、2倍も3倍も、あるいはもっと、頼れる感じだ。

平成の、あの頃が、僕の青春時代で本当によかった。そんで平成が終わっても、青春はもう少し観られそう。

 

本当にありがとうございます。平ジェネで出てきた時は思わず「ありがとうございます」声にでた。クールな青春がまた始まる。