終わりを信じないこと/ツヅキモノとのゲリラ戦争 トイストーリー4に寄せて

敬愛する結騎了さんのブログが荒れている。
 
 

www.jigowatt121.com


結騎さんが最も恐れていたことが現実になった。
 
まだ「トイ・ストーリー4」は観れていないのだが、先日の記事から読んでいて、我慢できずネタバレを目にしてしまった。トイ・ストーリーシリーズの全てを愛するおもちゃ達とリビングで見届け、そして毎回涙した者として、既に近しい思いと言うか、やり切れない思いを感じている。
 
と同時に、近年の「シリーズもの」について恐れていることがあるので、簡単に記載させてもらう。やっぱり僕らの「戦い」が始まると言う感覚である。
 
以下、主に「トイストーリー」、「アベンジャーズ」、「スターウォーズ」「平成仮面ライダー」シリーズの各最新作のネタバレを多く含みます。未視聴の方はご容赦を。
 

 

「ドル箱」としてのツヅキモノ

 
ディズニーが強すぎる。「ディズニー」だけじゃなくて、マーベル、ルーカスフィルム、スポーツまで取り込んで、王国を建造し現実にまで侵略してくる超大国なのである。

wired.jp


正直耳タコな話ではあるけれど、コンテンツそのものの中に多くのコミュニティとファンを持ち、クロスオーバーとしてヨコにも繋がり続ける。これは00年代まではファンアートとして自由闊達に楽しまれてきたものであり、お互いが時に楽しみ合い、厳しく指摘しあいながらある意味コソコソと、インターネットのそこかしこで、暗がりの中で楽しまれてきたものだったと記憶している。
 
それが「MCU」「アベンジャーズ」の登場のあたりから事態が急変する。オフィシャルに大胆に、とんでもない規模で膨張し続ける。昨日布団の中でニヤニヤと考えてきた僕らの「続き」が、スクリーンの中に完全にプロの手で調理されたモノとして眼前に届き始めたのだ。正確に言うとMCUは「ありものの映像化」だから、そんなに大きく軸はブレないし文句も出ない。「スターウォーズエピソード7」という都市伝説にも似たものの具現化の中で、それははっきりとカタチとして現れたのである。しかもドラゴンボールの続きを鳥山明が作るようなものではなくって、全くの他人が作れてしまうのだからタチが悪い。絶妙にファンに目配せされ、完璧なフォローでもっていくらか文句のつけようのないものとして調整されているからだ。
青春を賭けて追いかけてきたものであればあるほど、「続き続ける」効果は抜群である。何が抜群かといえば「カネになる」。それは「プレミアムバンダイ」という我々日本オタク御用達サービスの成功が物語っている。

https://www.bandainamco.co.jp/cgi-bin/releases/index.cgi/file/view/8269?entry_id=5744  


 
思い出が強ければ、それは強烈なロイヤリティになる。ロイヤリティとはカネである。
 
それは「スターウォーズ」「MCU」といった「男の子のスキなもの」だけでなく、全ての「昔多くの人の琴線に触れたモノ」の全てに適用される。プリンセス映画の実写化だとか、今回のトイストーリーのような、もっと幼かった僕らの人格のド真ん中に位置するコンテンツも容赦無く対象になる。一つひとつの「復活」「続編」「実写化」に、僕らは向き合うことになったのだ。だから、恐る恐るその扉たちを開ける作業は、常に喜び9割とともに「果たして期待したもの=あの頃夢見たものに合っているものだろうか」と言う緊張感を1割含んでいる。

 

 
納得と感動とそれ以外、割合は調整出来ても整理出来ない感情

大前提は、喜びと感謝なんだ。
 
心のどこかで、諦めながら待っていた。そんなものが蘇り、立ち上がり、続いてくれる。暗がりの中で願っていたものが本当にやってくるんだ。20歳になった時にいきなり赤い服でヒゲを生やしたサンタがやってくるようなもんだ。世界は少しずつ本当に昔願ったものになってくれている。ただしそのサンタさんは、往往にしてソリじゃなくヘリに乗ってやってくる。やたら求めてもないのに説得力があるのである。
  「外伝」でもなく、「特別編」でもなく、「続編」と言うカタチで現れたものには、僕らは真正面から対峙しなければいけない。たとえヘリでやってくるサンタクロースでも。
 
どうしても「続編」はそれまでからの改善である。どこかそれは「ポジティブで」その時の「現代的なもの」であり、また「新しいターゲット」にどこかしら向いたものでないといけないのはしょうがない。
それによって僕らは新しい解釈や、それまでのシリーズのモヤモヤした部分にブレイクスルーを感じられることもある。「スカイウォーカー・サーガ」の終着点とされたスターウォーズ続3部作は「誰でもなれる、チャンスがあるスターウォーズ」になったと思うし、「ジオウ」では力を失い、やつれ痩せながらも芯の部分が変わっていない城戸真司を観ることができる。それは決して二次創作では受け取ることのできない強いメッセージであると同時に、次なる希望を与えてくれる。
 
しかし多かれ少なかれ「感情の取りこぼし」を起こす。つまりそれまで形成されてきた「あるべき」はマスに対して往々にして通用せず、捨てられざるを得ないということだ。「〇〇は人生」と言うワードは今やあたり前だが、本当に人生のように、青春そのものとして認識されてきた作品の「あるべき」が、時代に沿って削ぎ落とされ、新しい「あるべき」を取り込んで肥大化する。何かの物語を「好きだ」「素晴らしい」と思ったその時、まだ作品は「青春」でしかない。続編のデスマーチが「人生」の様相を呈している。
 
以前は単純なお姫様キャラだったボーが、強く逞しい女性になったということは一つトイ・ストーリーでは象徴的だと思う。
 
以前ジャンプ作品でよく騒がれていた「結局血統ゲーやん」「最後はトーナメントやん」もある意味、長く続く作品の宿命としての一つの「感情の取りこぼし」だろう。
 
感情の取りこぼしは、無限に起き続ける。
実は、僕の中でもどうしても、それこそ「ツヅキモノ」としてのアベンジャーズの宿命であったトニー・スタークの死を、エンドゲームから2ヶ月経つ今でもあまり受け止められていない。もっというとソーが太ったままMCUが進んでいくことも、キャプテン・アメリカがムジョルニアを握れたことにも納得がいっていない。そこには僕なりのシリーズへの憧憬があって、「強く万全なアベンジャーズが」「それぞれの強さを生かして」戦うことにひとつの青春を感じていた からなのだと思う。思えばキャップがムジョルニアを掴んだ瞬間から、アベンジャーズが「青春」から「人生」に変わった。
100%完璧な結末は、残念ながら面白いモノほどもう絶対に、得られない。

なぜならもうそれは延命を繰り返し、「青春」ではなく「人生」へと否応無しに変わっていくからだ。 

 
最終手段としての「信じない」という対処法

告白でもなんでもないのだけれど、
僕はトニー・スタークの死を信じていない。
ウッディは「バズと」「おもちゃ箱の中に」棲んでいると、まだ思っている。
なんならうずまきナルトが両親に愛されていたこともまだ信じていない。
 認識している僕の世界の中で、物事は全ていいようにストップしなければ、もう生きていけないのだと感じている。それが青春を守り、相手の眼を見て「好き」というための最終防衛線だ。「納得しているけれど、どこか信じていない」そうして生きるしかない。さもなくば不人気のためにそもそも「続編がなかった」ことにされて公式で別の続編が作られたターミネーターシリーズと一緒だ。
 
 
ヱヴァンゲリヲン新劇場版における(NOT)有り無しパラレルワールドというものをご存知だろうか。

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 http:// https://ameblo.jp/tatsuya0404/entry-11407090720.htmly  より転載させていただきました。
 
考察の量と深さが尋常出ないエヴァンゲリオンシリーズならではの考え方だと思うのだが、「連続するストーリーと思われていたモノが実はパラレルワールドの連続時間軸のモノである」 とする考え方である。
2012年の公開当時に観客を完全に置き去りにした衝撃の「Q」公開時に、ファンの方々の愛憎入り混じる議論の末確立されたものである。
 これを初めて目にした時(とはいえファンの熱量が高すぎて公開三日後にはネットで確立されていたのだけれど)、「あ、幻だと思っていいんだ」と、かなり肩の荷が降りた気がしたのである。ああ、悪い夢だと考えるのもありだって。いや夢ではないんだけれど。
トイ・ストーリーパラレルワールドもへったくれも、あったものではない。バズがよしんば飛べたとしても、タイムリープは絶対できない。しかし、ありえることなのかもしれない。でも全ての作品の作り手と同じ世界、時系列に僕らは生きていて、まだまだなんだって作り出すことも信じることもできるのだから。残念ながら事実は変えられないし、得た体験は帳消しにはできないが、世界がどうあるかは全て自分の認識があってのことである。
 
僕たちの「青春」と思っていたコンテンツが、「人生」の長さまで延命し、時代に求められるため変化していく。続くことそれ自体がドル箱になった今、物語を持つ全てのコンテンツにこれは可能性がある。いつ何時、「青春」が「人生」になり、信じるか信じないかを選ばせる日がやってくるかなんて、もうわからないし頻度をどんどん上げて襲いかかってくるのである。
もうこれはリビングデッドになった作品たちと、物語を愛する者たちとのゲリラ戦争なんだ。集団と集団の全面戦争ではなく、いつ何時やってくるかわからないゲリラ戦としての続編と、対処両方的に「信じる」「信じない」で持って事故を防衛する我々との。
そして、「信じない」選択をした物語は、大なり小なりその輝きを失っていく。青春をまばゆいままにして。
 


ネクロマンスと戦い続ける世界へ

昔までも大なり小なり、作品への愛のあまり結末に納得できないなんてありふれた問題、そこかしこにあっただろう。いつだってそういった意見を持つことが、自分を大人にしてくれたなんてことも感じている。
しかし今はそれがいつ何時起こるかわからない。
①いつ続編が出てくるかわからず
②目まぐるしく尊重される価値観が変わる
からだ。残念ながらレガシー的なモノであっても、新しいモノを取り込まないといけないかもしれない。そっちの方が面白いかもしれないし。
 
「ツヅキモノ」というゲリラゾンビ。人生100年時代。僕らの青春は残念ながら、青春のままではいられなくなってきている。