「置かれた場所で咲け」という話が嫌い/期待と呪いの話

不合格、異動、命令、却下
どちらかというとこういうネガティブな出来事の前後に来ることが多いと思う。「置かれた場所で咲きなさい」というこの言葉。大嫌いだ。

もとはと言えば、「来た道を正解にしなさい」「期待に応えなさい」「頑張ればきっと拾って(摘んで)もらえるよ」という意味のモチベートの言葉であろうと思う。
言いたいことはわかる。起きたことはしょうがない。むしろ落ち込むこともない。頑張ればいい。やることはシンプルだ。そして、必ず見出される。
そうすれば、きっとゆくゆく出来ることも増えるし、認められるし、そこから最大の幸福が得られる。目的は自ずと絞られ、行程は明確になる。新しい環境が不安な人の目先のつゆ払いをするのには、とても向いた言葉だと思う。

その上で。やっぱり嫌い。
①「そこ」で「咲く」ことだけが「成果」に思えてしまうから。
例えば成果AがA=X×Y×Zで求められるとして、
「そこ」がさも決まった場所であると「置かれた場所で咲きなさい」と言われて誤解をすれば、Xが固定されて後はY×Zのみを頑張って上げてAを出せと言われているようなものだ。Aを出すことにやり方があり、すでに何かが決まってしまったと言うようなものだ。

②「誰か」が「見ている」ような錯覚に陥るから。
頑張れば報われるのは今は昔の話で。尚更新しい環境なんて注目されるかどうかなんてわからない。
「置かれた場所で咲きなさい」はともすれば何かしらを決める「神」がいて、「見られている」かのようにとらえられる。だとすれば、認めて貰う為の努力しかしなくなるのではないか。ゴールが「ある」と錯覚してしまうのではないか。現実、みんなが見ているとも言えるし、誰も見ているとは言えない。しばらく経ってから半分咲きぐらいで、誰も見ていないと気づく方が残酷だ。

 


結局、「期待」は「呪い」であり、「鼓舞」は「限定」だと思う。そして、「声援」は無意識に「応援してあげる側」「して貰う側」を作るとも思う。だから人を応援したり、期待したりというのは軽い気持ちでやっちゃいけないと思う。「現状をポジティブに受け止める」ことは、人生を縛りプレイに近づけるのではないだろうか。
もちろん、腹は括らなきゃいけない時もある。その時は菌茸のように伸びて広がって、知らないところで咲いてやる。